忍者ブログ

サックス 敦

*今日のつぶやき*(1/6) 部屋で育てているギンモクセイが開花中で、香りに癒されています 敦

中庸の美 vs. 天地両極を具有する美

人によってその判断が大きく分かれる、価値観というヤツ。だからこそ人は自分固有の感覚にどこまで固執すべきか永遠に悩み続けながら美を追求していくだろう。でもその自分固有の感覚ですら、何を根拠としていたか見直す機会も時には必要だ。

ajisai.jpg今朝、道端に水色のあじさいが咲いていた。決して派手な花ではないが、色は穏やかで心地良く花びらも欠けていず、その完璧さがトータルで美しいと感じた。かといって感涙するほどではない。そこでふと思ったのは、もしここに一輪の鮮やかな花があり思わずハッとして立ち止まったとしよう。みずみずしい花びらを我を忘れて見つめていた時、そこにたった1個の傷を見つけたとしたら、どう感じるかなと。傷によってその花への興味はたちまち失せ、他の個体を探し始めるのか?傷にもめげずに眺め続けるか。それともいっそあじさいを選ぶのか?この世に完璧というものが存在しないとすれば、心を揺さぶるような美を持ちながらも傷のあるもの、一方ありふれた美ではあるが欠点の無いもの、どちらを最終的により美しいと感じるか、どちらが好きか?子供の頃「コレきれい~」と木の実や花びらを夢中になって拾い上げ、大人に「でもここ傷があるわね、そっちのやつもキレイよ」となにげなしに言われ戸惑った。純粋に美しいと感じたままの感覚を増幅すべきか、傷を排除するトータル美を重視すべきか。今の自分はどっち傾向?そしてこの先どっちへ行きたい?これは視覚的な美に限らず音楽にもいえるし、味覚やもしかすると対人関係にも言えるかもしれない。

kabin.jpg同じ文化圏にいる者同士には、美を感じる共通項がいくつか存在すると思われる(謙遜=美、自慢=醜、など)。人類全般にも最低共通項はあるだろう(花=美、汚れ=醜、など)。不特定多数の人にウケる普遍的共通項の探求にも興味はある。だけど「キレイ」「イイね」の一歩先、つまり感動に到達する美は個人によって異なってしまう。いやそれとも、究極の美は再び普遍的なものになるのか?私の場合、少なくとも音楽に関しては、たった一瞬でもグワッと心を奪ってゆく、傷があろうとそんな美を(コッソリ)追求し続けたい。そんなわけで私はMozartがニガテだ(笑)。究極の美か…生涯に一度でいいから体験してみたいものだ。こう書いてしまうと、確かに"薬"に頼れば天も地獄も見られるかもしれないけど、あいにく私の選択肢には入っていない、誘わないでね(^^;)。

唐突だが「平均」を調べる方法は3つ…(1)単純に全データを足して割った値(mean)、(2)最も出現頻度の高い値(mode)、(3)データを並べて中央にきた値(median)、があったと思う(自信ナシ)。medianの場合まず最大値と最小値を削除した上で残るデータのみ対象にするんじゃないっけ(自信ナシ)。この削除行為に少なからず胸を痛めた高校時代の私がいます(ToT) (一応理系)。何が言いたいかというと、美の平均値計算はしばらく休んで、これまで犠牲にしていた最大値に注目してみたい、人の迷惑にならない程度に。以上、今朝あじさいを見て感じたこと、デシタ。こーゆうヒマなこと考えてる人って他にも居るのかねぇ。さぁて、そろそろ仕事しないと。

《追記》 medianとは、データを大きさの順に並べた時の真ん中の値あるいは真ん中の2つの値の平均値、らしい。無視されるのは最大値、最小値だけではなかったのか…
PR